初の鹿児島 桜島・知覧への旅

2007年01月25日

朝靄の中の桜島
朝の桜島

 朝6時に起床。朝日と桜島をテーマに写真撮影に向かった。
宿泊したのは「鹿児島東急ホテル」。鴨池港の海岸沿いにあり、海側の部屋は桜島が正面に見え る。私の部屋は残念ながら西向き。つまり桜島とは反対方向。
 そんなに寒くないだろうと手袋も持たずに出動。6時30分にホテルを出たがまだ真っ暗。とりあえず 桜島を正面に見ることの出来る桟橋に向かった。
 7時近くなりあたりは薄明るくなってきた。出漁する漁船が5分おきくらいに目の前を通過。そのた びにシャッターを切った。正確に言うと、朝靄がかかっているからAFではピントが合わないから舟で も狙わないとピントが自動で合ってくれない。鴨池港にはフェリー乗場がある。フェリーも入港しては 慌しく出港していった。
 7時30分ごろ日の出。このときタイミングよくフェリーが出港してくれた。朝日に向かうフェリーを撮 影できた。いかにも「旅立ち」って言うような写真が撮れた。さすがに1時間も外にいると体が冷えて くる。


鹿児島市街から知覧へ

 仕事を予定通り午前中に済ませて知覧へ。
取引先の人に鹿児島中央駅まで送ってもらった。10時17分発「特攻観音」行きのバスに無事乗 車。路線バスに揺られる事1時間平川と言うところで海岸沿いの道から道に右折。知覧峠を越え鹿 児島中央駅から約1時間30分程経ったところで、急に開けたところに出る。すると薩摩京都、知覧 の街に到着する。
 ここ知覧にはかつて陸軍航空隊の基地があり、太平洋戦争末期、沖縄戦の最前戦基地として自 爆攻撃(いわゆる特別攻撃)に1000名以上の人たちが飛び立った。今、この知覧には「特攻平和 会館」があり20代前半にして命令で死を迎えることになった多くの人たちの生の姿がこの会館には あった。
 街は山の中にあるが知覧基地があったところはシラス台地の頂部で平坦な土地が広がっている。


知覧平和会館(特攻観音)

 訪問した日は1月だというのにポカポカ陽気でまるで春のようだった。1945年62年前のこの日は まだこの基地から飛び発つ攻撃は始まっていなかったと思うが、会館に入ると平和そのものの気候 が嘘のように。まさに62年前の世界にタイムスリップ。会館に入ってすぐにあるピアノ。そのエピソー ドをみて目頭が熱くなり。中に入ると遺影、遺書・絶筆、遺品。遺書を読み、遺影を見て、遺品の勲 章をみると、この人の命はこういうものでしか国は表現できないんだなと悲しい気持ちになった。遺 書の多くは残した家族に心配を掛けまいと「元気に行ってきます」「国のためです」なんて言葉や 「忠」「義」「報」などといった文字が多いが中には、戦死した兄の息子に宛てた隊員の遺書は涙無し では読めなかった。孤児になってしまう甥に宛てた手紙は最後まで読むのが辛かった。
 そして時代遅れの戦闘機に搭乗して、ものの無い次代だから飛行服といってもなにか貧弱なも の、そして隊員が最後に生活をした馬小屋のような三角兵舎。物資の満ち溢れる現在の日本に生 きる私には考えられない人生の最後。贅沢をしたら生きてきたことに納得が出来るというわけでもな いけど。
 展示してあった遺書を見ていると命令と言うもので最後を迎えることになった人たちが自分の人生 の意味を見出そうと悶々とした日々を客観的には冷静に送った姿が見えてきたような気がした。
 ここ知覧平和会館は広島、長崎の原爆資料館同様戦争の悲惨さや愚かさ、恒久平和を訴える場 所。多くの人たちに足を運んで頂きたいと思った。

特攻平和会館

会館入り口の銅像と飛行機

再現された知覧基地門柱

屋外展示の三角兵舎

三角兵舎内部

三角兵舎説明



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